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八尾(やお)は、大阪府八尾市内の一地域。 現在の本町地区を中心としたかつての「八尾寺内町」とその周辺の村落、荘園「八尾庄」があった地域の総称であり、のち、中河内郡八尾村→八尾町だった地域のこと。 本頁では、旧中河内郡八尾町の地域全体について記述する。 ==歴史・沿革== ===近代以前=== (日本 > 畿内 > 河内国 > 若江郡 > (八尾)) 河内国若江郡の南に位置し、寺内村(のち八尾町)のほかに「長八尾八か村」と呼ばれた 西郷村、東郷村、木戸村、庄之内村、成法寺村、今井村、別宮村、八尾座村の各村があった地域が狭義の八尾とよばれる。江戸時代初期までは八か村はひとつの村であったが、1628年(寛永5年)に8つに分村された。 八尾は、古くは「矢尾」「矢生」「箭尾」とも書かれた。また8つの尾羽を持ったウグイスがいたことから「八尾」と呼ばれるようになったとも伝えられている。 この地域は物部氏の一族である「粟栖連」や「矢作部」(矢作連)の本拠地であり、一族の租神を祀る粟栖神社(現在の八尾神社)や矢作神社が建てられ、延喜式神名帳にも記載されている。奈良時代の頃に行基によって常光寺(八尾地蔵)が創建されたと伝わっている。 平安時代には有力寺社の荘園となり、「八尾庄」と総称される。現在でも「荘内」などといった地名として名残をとどめている。また、矢作神社周辺はかつて「別宮」と呼ばれ、石清水八幡宮の別宮・荘園であった。 室町時代に入ると、古大和川(現在の長瀬川)左岸にある西証寺(のち顕証寺)を中心とした渋川郡久宝寺村がこの地域の中心となる。八尾はまだ寒村であった。 戦国時代になると、この地域に「八尾城」が築城され、たびたび戦乱に巻き込まれている。しかしその跡地がどこであったかは八尾神社近くにあった説と八尾座にあった説があるものの定まっていない。少し北の萱振村では恵光寺を中心として環濠集落が形成され、織田信長ら当時の権力者に対抗するも攻略されている。 大坂夏の陣では八尾の戦いの戦場になっている。 八尾地域の発展の転機となるのが、江戸時代初め頃の浄土真宗の宗派争いを発端とし、森本行誓ら久宝寺の一部住人が寺内町を支配していた安井氏と対立して、1606年(慶長11年)に慈願寺と共にこの地に移住したことである。まだ荒地の多かったこの地を開墾、新たに大信寺(八尾御坊)を建立し、周囲に寺内町を形成していった。その後、大坂の役では周辺地域が戦場となるものの、徳川方の保護により戦乱には巻き込まれなかった。1704年(宝永元年)に大和川の付け替えが行われ、周囲の新田で綿栽培が行われるようになった。その結果、八尾は綿花や河内木綿などの取引で潤い、八尾が久宝寺に代わって経済の中心となり、現在の八尾市発展の基礎となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「八尾 (八尾市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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